カラマーゾフの兄弟 第5編大審問官後~第6編

大審問官の後、イワンとアリョーシャは別れ

イワンは家に帰り、翌日にはモスクワに向かって旅立つまでが第5編の残りである。

 

そして、イワンと別れたアリョーシャが修道院に戻り、長老の最期の話を聞くのが第6編である。

 

個人的にはイワンが語った大審問官よりも、こっちのゾシマ長老の独白の方が面白かった。いや面白いというよりは興味深いといった方が正確か。

 

英語では面白いも興味深いも、どちらもinterestingだが日本語では

面白いは、面白おかしいエンターテインメント的な意味合いで

興味深いというのは、どちらかというと好奇心をそそられる的な意味

で使い分けてると思う。少なくとも私はそう考えている。

 

で、それによると、ゾシマ長老の独白は興味深いに当たる。

面白いならフョードル劇場の方が笑える。

 

同じ、一人による長い語りであっても

イワンの妄想叙事詩、大審問官は難解で何を言いたいのか分からないのに対し

ゾシマ長老の独白の方は分かりやすく、スッと頭に入ってくる。

 

いや、独白のいうのは正確でないか。これはどうも長老が死の直前に語ったことの他に、ゾシマ長老が今までに語ったことをアリョーシャが編纂、まとめたものの手記の紹介という体をとっているからだ。

 

神など信じないと大審問官が語っていたのに対し

ゾシマ長老の半生を語った内容では全体を通して、神の偉大さや信仰の大事さなどが語られる。

 

おそらく、このイワンの大審問官とゾシマ長老の説話は対比になっていて

ドフトエフスキーの言いたかったことはこちらの方だったんだと思う。

ゾシマ長老はドフトエフスキーの考えの代弁者であるばかりでなく

彼の青年時代までの体験をもとに作られた、分身だったのではないかなんて考えてみる。

ドフトエフスキーの人生についてはほとんど知らないのだが(笑)

 

まぁ、いずれにしても

ゾシマ長老の説話は、Give&Giveの精神や人類普遍の愛、己の正義でもって他人を裁いてはならない、他者への敬意を忘れてはならないなどの、キリスト教徒でなくても理解・共感できる内容が語られており(まぁ、結局はキリスト教徒であろうがイスラム教徒であろうが仏教徒であろうが日本人であろうが、説いている根っこの部分、人間社会でよりよく生きていく上で大事なことはさして変わらないということだろう)

 

【森で暮らしている聖者のところに獰猛な熊が現れたが

聖者は臆することなく前に進み出て、その熊にパンを与えた。

すると熊は聖者を攻撃することもなく、おとなしく森の中に帰っていった】

というところでは、『熊はパンなんて食わないだろ!』なんて余計なツッコミを入れながら(いや、もしかしたら食べるのかな?)

興味深く読んだ。