カラマーゾフの兄弟 第12編

第12編では遂に、運命の裁判の流れが描かれる。

 

最初の証人尋問ではすったもんだがいろいろあり、

次に検事と弁護士の、2人の情熱的な、熱狂的な弁論が披露される。

最後に陪審員の判決が下り、閉廷となる。

 

検事のイッポリートの弁論では

粗暴な人間に対する、世間の一般的な見方を反映しており、

「あんなことをするのはあいつしかいない」

「普段があんなだから、今回もそうにちがいない」

という気持ちを代弁しているのだと思う。

しかし、これは他者から見た表面的な印象でしかない。

 

それに対して弁護士の弁では

そういう粗暴な人間がどうして生まれてしまったのか、

そういう粗暴な人間はどうしてそういう行いをするのか、

その人物の経歴や思考から推測しており、

より一層その人の見になって考えられていると思う。

 

検事が表面的、他者視点であるのに対し

弁護士は内面的、自己視点という対比がここにあると思う。

 

罪を犯した人を、怒り飛ばすことは簡単だ。

しょっちゅういたずらをする子供を叱ることは簡単だ。

 

だが、そういう人は

なぜそういう行為をするのか

その行為の裏にある心理は何なのか

をかんげることが大事だと個人的には思う。

 

罪を犯したのも何か已むに已まれぬ事情があったのかもしれないし

しょっちゅういたずらをしてからかうのも、かまってほしくて、自分に興味を惹いてほしいからかもしれない。

 

我々はどうしても、気付くと相手の行動に対してだけ反応してしまい、

特に嫌悪感情などはそうであるが

表面的にだけ反応してしまいがちである。

 

ついつい罪に対する嫌悪感だけで

「なんでこんなことしてんだよ!馬鹿じゃないの?!」

「ダメじゃないか、こうしろって言っただろ」

と頭ごなしに叱りがちである。

しかし、相手が分別のある、高校生以上の人間であるなら

叱る前にまず相手の話を聞いて、事情を聞くのが大事だと

私は思っているし、自分自身もそう心がけている。

 

でないと、

自分の話も聞かずに頭ごなしに否定されても納得できないのである。

まず相手の事情を聞いて

「ダメなのは知ってるけど、今回はこれこれこういう事情があったのでこういう選択をしました」とか

「私はこれこれこういいう考えの方がいいと判断して、こう行動しました」

という話を聞いたうえで

「まぁ、確かに今回は仕方ないね」となる場合もあれば

「それだったら、こういうことをすればよかったんじゃないかな」と言うこともできるし、

「君の考えも一理あるけど、こういうこともあるからこっちの方がよりベターなんだよ」

と言えば、相手も納得し、なるほどと思うもので感情的遺恨も残らず、

スムーズにコミュニケーションがとれると思うのである。

 

そのためにはまず、相手の身になって考えるというのが大事であって、

今回の弁護士の弁にもそういう雰囲気を感じて、個人的には好感が持てた。

スメルジャコフの本性を見抜いていたのも流石である。

 

新たな登場人物

●フェチュコーウィチ

ペテルブルグから来た、高名な、ドミートリィの弁護士