カラマーゾフの兄弟 エピローグ

これが最終章である。

いや、これは本来3部作のうちの第1部でしかなかったものだから、

ドストエフスキー的には最終章ではなかったのかもしれないが。

 

う~む、何というか結局バッドエンドである。

 

ドミートリィは有罪になっちゃうし、

グルーシェニカとカテリーナは和解せず、

死に瀕していたイリューシャは死んでしまった。

イワンも熱病に倒れ伏したままである。

 

せめてもの救いはイリューシャの死後、彼の友達やアリョーシャが心の清さを叫び、誓い合う形で終わったことだろうか。

 

結局この後、ドミートリィの脱走劇やイワンやアリョーシャがこの後どうなるのかなどは語られずじまいである。

おそらく、この後の第2部、第3部でその後の3兄弟のその後が描かれるはずだったのだろうが、あいにく筆者死亡により、第1部だけの未完の状態で終わってしまった。

非常に残念である。

 

しかし、罪と罰も読んで、今回改めて思ったが、

このドストエフスキーという文豪は心の弱き人々の心理を描くのが非常に上手い。

上手いというかとても具体的でリアルなのである。

著作の中には人間的に素晴らしい人物やかっこいい男などはあまり出てこない。

ただひたすらにそこらへんにいるような、心の弱い普通の人の心に焦点が当てられ、

その弱き心が克明に描写されていく。

 

罪と罰では、犯罪がばれるのを恐れ、ビクビクする心を

カラマーゾフの兄弟では、酒や女、ギャンブルなどの誘惑に負け、お金をすっかり使ってしまう心や憎悪や嫉妬に燃える心など

が描かれている。

 

おそらくここまで人間の弱き心を鮮明に、克明に説明し描写できるのは、

ドストエフスキーその人自身がその弱い人間のうちの一人だったからではないだろうか?

 

そして、この、人間の弱く、愚かで、醜い姿をこれでもかと描くことによって、

だから、こういう我々を救うために宗教というものが必要なのだという主張が隠れているような気がするのである。

カラマーゾフの兄弟 第12編

第12編では遂に、運命の裁判の流れが描かれる。

 

最初の証人尋問ではすったもんだがいろいろあり、

次に検事と弁護士の、2人の情熱的な、熱狂的な弁論が披露される。

最後に陪審員の判決が下り、閉廷となる。

 

検事のイッポリートの弁論では

粗暴な人間に対する、世間の一般的な見方を反映しており、

「あんなことをするのはあいつしかいない」

「普段があんなだから、今回もそうにちがいない」

という気持ちを代弁しているのだと思う。

しかし、これは他者から見た表面的な印象でしかない。

 

それに対して弁護士の弁では

そういう粗暴な人間がどうして生まれてしまったのか、

そういう粗暴な人間はどうしてそういう行いをするのか、

その人物の経歴や思考から推測しており、

より一層その人の見になって考えられていると思う。

 

検事が表面的、他者視点であるのに対し

弁護士は内面的、自己視点という対比がここにあると思う。

 

罪を犯した人を、怒り飛ばすことは簡単だ。

しょっちゅういたずらをする子供を叱ることは簡単だ。

 

だが、そういう人は

なぜそういう行為をするのか

その行為の裏にある心理は何なのか

をかんげることが大事だと個人的には思う。

 

罪を犯したのも何か已むに已まれぬ事情があったのかもしれないし

しょっちゅういたずらをしてからかうのも、かまってほしくて、自分に興味を惹いてほしいからかもしれない。

 

我々はどうしても、気付くと相手の行動に対してだけ反応してしまい、

特に嫌悪感情などはそうであるが

表面的にだけ反応してしまいがちである。

 

ついつい罪に対する嫌悪感だけで

「なんでこんなことしてんだよ!馬鹿じゃないの?!」

「ダメじゃないか、こうしろって言っただろ」

と頭ごなしに叱りがちである。

しかし、相手が分別のある、高校生以上の人間であるなら

叱る前にまず相手の話を聞いて、事情を聞くのが大事だと

私は思っているし、自分自身もそう心がけている。

 

でないと、

自分の話も聞かずに頭ごなしに否定されても納得できないのである。

まず相手の事情を聞いて

「ダメなのは知ってるけど、今回はこれこれこういう事情があったのでこういう選択をしました」とか

「私はこれこれこういいう考えの方がいいと判断して、こう行動しました」

という話を聞いたうえで

「まぁ、確かに今回は仕方ないね」となる場合もあれば

「それだったら、こういうことをすればよかったんじゃないかな」と言うこともできるし、

「君の考えも一理あるけど、こういうこともあるからこっちの方がよりベターなんだよ」

と言えば、相手も納得し、なるほどと思うもので感情的遺恨も残らず、

スムーズにコミュニケーションがとれると思うのである。

 

そのためにはまず、相手の身になって考えるというのが大事であって、

今回の弁護士の弁にもそういう雰囲気を感じて、個人的には好感が持てた。

スメルジャコフの本性を見抜いていたのも流石である。

 

新たな登場人物

●フェチュコーウィチ

ペテルブルグから来た、高名な、ドミートリィの弁護士

 

 

カラマーゾフの兄弟 第11編

第11編は、ドミートリィの逮捕後2か月、公判前日のことが語られる。

 

アリョーシャはこの日、矢継ぎ早に様々な人のところを歩いて回る。

 

最初はグルーシェニカのところへ行き、次にホフラコワ夫人、リーザ、

ドミートリィのとこへ行って、その次にカテリーナ・イワーノヴナ、最後にイワンと話しをする。

 

後半はイワンの視点に代わり、イワンとスメルジャコフの話、自分自身の中の悪魔との対決の話が語られる。

 

それぞれの人物たちが、それぞれの胸に抱く悩み、感情、本音をアリョーシャに吐露していく。それがみんなリアルで、誰もが、一人は共感できる人物がいるのではないかというぐらい、よくある人間の愚かな感情が描かれる。

 

グルーシェニカは女の嫉妬を

リーザは罪を犯したい誘惑に駆られる心理を

ドミートリィは高潔さと誘惑に揺れる心理を

イワンは今まで下に見ていた人物に馬鹿にされる屈辱感や己の中の葛藤に苦しむ姿

 

がそれぞれ描かれる。

 

私は女性ではないので、女の嫉妬というのはよくわからないが、

常に自分の彼氏が浮気してないか気になって、こっそり彼氏の携帯のメールとかをのぞいたりする、束縛系の女性の心理はこういうもんなんだろうと推測した。

 

リーザの感情にしても

まじめな人には理解を得られないだろうが、

若い頃は、自分が生きてきた環境に飽きてきて、違う世界を見てみたいとか、

ダメだと頭ではわかっているが、実際にやってみたい衝動に駆られたりする時があるものだ。

私にも覚えがある。

学生の頃に、静かな全校集会中に、いきなり発狂して、大声で叫んだらどうなるだろうか?などと考え、衝動に駆られたりしたことがあったものである。

実際は理性の抑制と勇気のなさから実行することはありえないのだが、やってみたいと思ったことはある。

もしくは、会社などで常に威張り散らして、部下に指図しているような人に限って、

プライベートではクラブの女王様に罵られ、鞭打たれることに喜びを感じるような男もいて、そういう人はそうやって自分の精神のSとMのバランスをとっているという話もあるから、

リーザの場合も今まで、裕福な家庭で育って、正しく生きてきた反動でそういいう衝動に駆られてるというのもあるかもしれない。

小学校などの小さい頃は先生や親などに言われた通り、ルールや正しいことに従って生きているものだが、もちろんそれには怒られたら怖いというのもあるが、

高校生とかそれなりに分別がついて、親や先生が怖くなくなってくると、次第にそういう衝動に誘惑されたりするものである。

高校生や大学生などの若者の犯罪が多いのもこういう理由からだろうか。

リーザも年頃ということで、そういう状況になっているのだろう。

もちろん、彼女は口ではあんなことを大層に言ってはいるが、絶対実行することはないだろう。

概して、口では挑戦的なことを言うが、実際に行動に移すことはないのがほとんどである。

 

 ドミートリィのところでは

自分は誘惑に弱い人間で、数々の罪を犯してきたが、この機会を

反省し更生するチャンスと捉え、苦しみに耐える決心をしつつも

その後もっと楽な道があることが分かり

自分のためを思えば敢えて厳しい状況に追い込む方が有益と思いつつも

それでも楽な方法があるなら楽をしたい

だが、そうやって誘惑に負けて、楽をする方を選べば結局今までと変わらず、己の成長はないとも思い…

という間で揺れる心理が描かれていると思う。

 

最後にイワンの部分では

今までただの召使と下に見ていたスメルジャコフに

今回の事件に関して、小ばかにしたような態度をとられ

屈辱を味わい、憤ると共に、何とか己のプライドを保とうと必死になっているイワンが描かれていたと思う。

さらにそのためかなぜか、イワンは精神を病み、

家に帰ってからは、自身のうちの悪魔の声と戦うことになる。

おそらく家に着いた時点で、彼は、精神的疲労により、そのまま倒れ伏したが、

そのことにも気付かず、夢の中でその続きが続いてて、アリョーシャのノックの音で目覚ますまで、そのことに気付かなかったのではないだろうか。

さらにその中で悪魔が語る伝説の部分の話はドストエフスキーの人生にトレースしているように感じる。というかあの伝説で語られた人物こそドストエフスキーその人ではないだろうか。

ドストエフスキーは若い頃は社会主義者であまり神を信じていなかったが、社会主義の活動で政府に逮捕されて、牢獄に入ってからは逆に宗教主義的存在という真逆に思想が変化したとかなんとかいう話を聞いたことがある。うろ覚えなので細かい部分は違うかもしれない。が、そんな人生を歩んだはず。

 

そう考えるとカラマーゾフの3兄弟はドフトエフスキーの分身ととられることができる。

社会主義者で思想的なイワンはドストエフスキーの逮捕される前までの姿

神を信じ、宗教的なアリョーシャはドストエフスキーの宗教に回帰した後の姿

そして、ギャンブルや酒など誘惑に弱く、罪を犯しがちなドミートリィはドストエフスキーの逮捕前後でも変わらなった、根本的な姿を反映しているように思えてならない。

確かドストエフスキーは作家になった後もギャンブルや酒をやめられず、貧乏作家だったと聞いた覚えがある。

カラマーゾフの兄弟 第10編

第10編は今までのドミートリィ関連のエピソードから打って変わって、

アリョーシャ関連のエピソードに戻る。

 

内容は簡単に言うと

スネギリョフの息子イリューシャが病気になって、

石を投げ合っていた子供たちや、太ももを刺したというクラソートキンという少年との

和解や昔話が披露される。

 

クラソートキンというのは高慢で、他の人をひどく見下す癖のある若者なのだが

その彼がアリョーシャを気に入り、お近づきになろうとする。

 

彼は、自己優越感を得ていたいタイプの人間であり、そのため、逆に他人から馬鹿にされたり、見下されたりするのをひどく恐れている。

私にも身に覚えがあるからわかる。

 

さて、前回のドミートリィ、今回のアリョーシャと来て、

目次のタイトルからして次章のエピソードは次兄イワンについての話になるらしい。

 

新たな登場人物

●ニコライ・クラソートキン

→ドSで、自己優越感に飢えた少年。イリューシャ元親友。

●スムーロフ

→クラソートキンの年下の友人。クラソートキンのことをアニキのように慕っている。

 

カラマーゾフの兄弟 第9編

第8編の最後で、いきなり逮捕されたドミートリィだが

第9編では、ペルホーチンが彼と別れてからどうなり、どういういきさつで署長たちが駆けつけることになったかの経緯と

その後で予審の状況が綴られる。

 

正直、予審が始まってからは、中々話が進まず退屈になってくる。

ネリュードフが何か質問しては、ドミートリィの答えが長く、中々的を射ず、話が進まない。

ドミートリィやネリュードフ、その他あの場面に立ち会った人々全てが、予審が中々進まず疲れていたと思われるが、それはその場面を見ている読者も同じである。

 

ちなみにヨーロッパの小説には、よく「予審判事」などというものが出てくるが、

調べてみたところ、予審とは被告を正式に裁判にかける前に、

この被告がほんとに裁判にかける必要性が認められるか調査することで、

この調査を担当する、調査専門の裁判官のことを予審判事というらしい。

 

中性のヨーロッパの仕組みかと思いきや、現在のフランスなどで今も残っている仕組みらしい。戦前の日本にもこの仕組みがあったが、ほぼ形骸化し、戦後なくなったようだ。

 

新たな登場人物

●ペルホーチン

→ドミートリィの鉄砲を質に入れさせ、10カペイカ貸した官吏

●ニコライ・ネリュードフ

→予審判事の若者

●イッポリート・キリーロウィチ

→検事補だが、文中では検事と略される

●ミハイル・マカロフ

→郡の警察署長

●マヴリーキィ・マヴリーキエウィチ

→分署長

カラマーゾフの兄弟 第8編

第8編はアリョーシャが修道院を出て、グルーシェニカのところへ行き、また修道院に戻ってくるまでの1日と同じ日のドミートリィの動きを追った編である。

 

新しい登場人物

●マクシーモフ

→最初の方の修道院で、フョードルからフォン・ゾーンと馬鹿にされていた、卑しい地主じじい

●アンドレイ

→ドミートリィが雇った馭者

●トリフォン

→プラストゥーノフの宿屋の主人

●ヴルブレスキー

→グルーシェニカの元カレのポーランド人のボディガード。息子?

●カルガーノ

→マクシーモフと一緒に宿屋に居合わせた若者

●ミハイル・マカールイチ

→郡警察署長

カラマーゾフの兄弟 第7編

第7編ではゾシマ長老の死んだ後の1日のエピソードが語られる。

大まかに言うと、ゾシマ長老の死に悲しさと悔しさを感じたアリョーシャは修道院をでて、グルーシェニカのとこへ行き、また夜に帰ってくるという話。

 

驚いたのは、ロシアにも、いやキリスト教にもと言ったほうがいいか、

芥川龍之介の蜘蛛の糸のような逸話があったってことだ。

蜘蛛の糸の話は仏教由来の話だと思っていたが・・・

蜘蛛の糸が葱になっただけでほとんど同じなのである!

蜘蛛の糸の話が中国を経由してロシアに入ってきて、キリスト教と融合したのか

いや、もしかしたら葱の話自体が、実はキリスト教由来で、その話がインドに伝わって、蜘蛛の糸に加工されて伝わったのかもしれない。

なんせ仏教よりもキリスト教の方が古いんだからね。

 

しかし、グルーシェニカのアリョーシャのやり取りはどういうことだろう・・・

2人はお互いのことを、卑しい女、汚い人間と卑下しあって、お互いを褒めあい、愛し合っている(恋愛的な愛でなく、人間としての、キリスト曰く隣人を愛しなさいの愛)ではないか!

そんなやり取りを見て、ふと自分のことを考えてしまった。

私も自分のことを、頭も悪く、目も悪く、耳も口も鼻も悪い、おまけに運動神経も悪い、ほんとクソな人間と思っているからだ。

こんな人間を好きになる異性なんているはずがないと頭から信じてやまないのである。

もし、私のことを愛してるという人が現れても私は信じないだろう。

私は、たった一人でなく、皆の、異性の笑顔さえ見れていればそれで幸せなのである。

 

まぁ、そんなことはどうでもいいとして、

やはり、辛い時は他者と交わるといいというのはその通りなのだろう。

落ち込んでいたアリョーシャもグルーシェニカと話したことで、いくらか気分転換できたみたいだしね。

辛いのは自分だけじゃないと分かったことで、少し前向きになれたんだろう。

 

新たな登場人物

●サムソーノフ

→グルーシェニカを拾った、実業家の爺さん